竹脇昌作(たけわき・しょうさく)は、戦前・戦後の日本でニュース映画の解説やラジオ番組の司会を務め、独特の語り口と美声で知られたアナウンサーです。1910年9月5日に生まれ、1959年11月9日に49歳で亡くなりました。NHKの養成期間中に退職した経歴を持ちながら、パラマウントのニュース映画やラジオ東京の「東京ダイヤル」で存在感を発揮し、後年には徳光和夫らが声帯模写で再現するほどの伝説的な存在になりました。
竹脇昌作の生涯を理解するうえで重要なのは、NHKを離れた理由、ニュース映画で評価された声の特徴、そして晩年に担当した生放送との関係です。人物事典や放送史の研究、放送ライブラリーに残る番組記録を手掛かりに、出生から逝去までの歩みと、2026年現在における評価を整理します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 生涯と経歴:1910年生まれ。青山学院大学英文科を卒業し、NHK入局後はニュース映画解説者として活躍しました。
- 美声と功績:パラマウントのニュース映画やラジオ東京の「東京ダイヤル」で独自の語りを確立しました。
- 死因と後世への影響:1959年11月9日に49歳で逝去。徳光和夫らの声帯模写を通じて、その語り口は後世にも知られています。
【生涯の出発点】1910年の誕生から青山学院大学卒業まで
竹脇昌作は1910年(明治43年)9月5日生まれです。幼少期から美声で評判だったと伝えられ、声を使って情報を伝える仕事において、早くから資質を備えていた人物として紹介されています。
学歴は青山学院大学英文科卒業です。英語を学んだ経歴は、国内のニュースを読むだけでなく、海外の出来事を映像とともに紹介するニュース映画の解説者として活動した経歴とも重なります。
ただし、竹脇昌作の出身地には資料による違いがあります。コトバンクに掲載された『20世紀日本人名事典』などでは東京出身とされる一方、別の人物紹介には新潟県出身とする記述があり、富山県射水郡作道村大字殿村津幡江村(現在の富山県射水市殿村)を出生地とする情報も見られます。出身地をめぐる記述は一つに統一されていません。
このような資料上の違いがある一方、生年月日、青山学院英文科卒業、1959年11月9日の逝去については、人物事典など複数の人物紹介で確認できます。竹脇昌作の経歴を調べる際には、比較的一致している基本情報と、資料によって異なる情報を分けて捉える必要があります。
【NHK退職理由の真相】1934年の入局から約1か月で何が起きたのか
竹脇昌作の経歴で特に注目されるのが、NHKへの入局と、その後の短期間での退職です。放送史を紹介するデーブ川崎(川崎隆章)の記事によると、竹脇は1934年、日本放送協会が初めて全国規模で実施したアナウンサー公募に合格しました。同期には、のちに著名なアナウンサーとなる和田信賢や、作曲家として活動した服部逸郎らがいました。
ところが、竹脇は養成期間中にNHKを離れたとされています。入局から約1か月で退職したという短い在籍期間は、後年の活躍を知る読者にとっても意外な経歴です。ただし、コトバンクに掲載された人物事典には昭和8年(1933年)に入社したとする記載もあり、入局年については資料間に違いがあります。
退職理由については、主に二つの説明が見られます。一つは、地方勤務を望まなかったという説です。コトバンク掲載の人物事典は、地方勤務を嫌ってNHKを退社したと説明しています。
もう一つは、学生時代の政治活動が影響したとする説です。デーブ川崎の記事では、在学中の政治活動を理由にNHKから解雇されたといわれているものの、正確な理由は公表されていないと説明されています。特高警察からの働きかけがあったのではないかという見方もありますが、確定した事実として扱うことはできません。
また、資料によって「退職」と「解雇」という表現にも違いがあります。したがって、NHK退職の理由を政治的圧力だけで説明したり、本人の希望だけで説明したりするのは慎重であるべきです。確かなのは、NHKで長く勤務する道は早い段階で終わった一方、その後にニュース映画の解説者として独自のキャリアを築いたことです。
【経歴年表】パラマウントのニュース映画から「東京ダイヤル」まで
竹脇昌作の仕事を理解するうえで欠かせないのが、映画館で上映されたニュース映画です。日本映像学会の論文「声の動員―1930-40年代記録映画におけるラジオアナウンサーと弁士」は、当時のニュース映画においてラジオアナウンサーが重要な役割を果たしていたことを論じています。同論文でも、竹脇は『朝日ニュース』や『東日大毎国際ニュース』『パラマウントニュース』などに関わった人物として取り上げられています。
人物事典によると、竹脇は日・英・米のニュース映画を担当し、とりわけパラマウント・ニュースでは1936年6月の第1号から第411号まで、ほとんどの解説を手掛けました。NHK在籍期間は短かったものの、ニュース映画という別のメディアで継続的に仕事を残したことが、彼の評価を支える大きな要素になっています。
| 時期 | 出来事・活動 | 注目ポイント |
|---|---|---|
| 1910年9月5日 | 誕生 | 美声で知られたアナウンサーの生涯が始まる |
| 大学卒業まで | 青山学院大学英文科を卒業 | 英語を学び、後の解説者としての活動につながる基礎を築く |
| 1934年とする資料 | NHKの全国規模のアナウンサー公募に合格・入局 | 養成期間中に退職したとされる。入局年には資料差がある |
| 1930年代後半以降 | ニュース映画の解説者として活動 | 『朝日ニュース』や『パラマウントニュース』などを担当 |
| 1936年6月以降 | パラマウント・ニュースの解説 | 第1号から第411号まで、ほぼ全号を手掛けたとされる |
| 1957年4月 | ラジオ東京「東京ダイヤル」に出演 | 独特の語り口で人気を集め、生放送の司会者として活躍 |
| 1959年11月9日 | 逝去 | 49歳。人物事典には自死と記載されている |
戦時中には、ニュース映画やレコードなどのナレーションにも携わりました。当時のニュース映画は、テレビが一般家庭に普及する前に、映像を通じて国内外の出来事を伝える重要な媒体でした。映像だけでは伝わらない背景や意味を、語り手の声によって補う役割があったのです。
戦後の竹脇は、1957年4月からラジオ東京の「東京ダイヤル」に出演しました。放送ライブラリーには、1958年10月17日放送の「東京ダイヤル 浅草特集」が保存番組として登録されており、出演者として竹脇昌作の名が記録されています。これは、当時の活動を具体的にたどることのできる放送資料の一つです。
【竹脇昌作の美声】ニュース映画で評価された声と話術の特徴
竹脇昌作の魅力は、単に低い声だったという点だけではありません。後年の放送史に関する記事では、落ち着いた声質に加え、発音の明瞭さ、言葉の区切り方、テンポのよさが特徴として挙げられています。声そのものの印象と、情報を耳で理解させるための話術が組み合わさっていたことが、彼の評価を考えるうえで重要です。
ニュース映画の解説では、限られた時間の中で映像に沿って情報を伝えなければなりません。視聴者は画面を見ながら語りを聞くため、発音が不明瞭だったり、話す速度が映像と合わなかったりすると、内容を把握しにくくなります。竹脇の語りは、落ち着きのある声と切れのよい発音を両立させる点で印象に残ったとされています。
デーブ川崎の記事では、戦前の映画の録音技術にも着目しています。当時の映画の光学録音では低音域が十分に再現されず、竹脇の声の魅力が、単純な低音の響き以上に、抑制の効いた発音や言葉の切れ味として受け取られていた可能性が指摘されています。戦後にラジオを通じて声が届けられるようになると、低音の魅力も広く認識されるようになったという見方です。
この指摘は、竹脇昌作の美声を考えるうえで興味深いものです。声の評価は、発声する本人の特徴だけで決まるわけではありません。マイクや録音方式、再生環境、聞き手が接するメディアによっても印象は変わります。竹脇の声が長く語り継がれた背景には、本人の話術と、当時の映画・ラジオというメディアの特性が重なっていたと考えられます。
【死因と晩年】「東京ダイヤル」での活躍から1959年の逝去まで
竹脇昌作の晩年を語るうえで重要なのが、ラジオ東京の生放送番組「東京ダイヤル」です。番組は1957年4月に始まり、竹脇はニュースや生活に関する話題を伝える司会者として知られるようになりました。番組を通じて人気を集めた一方、映画のように収録された素材を使う仕事とは異なり、生放送では決められた時間に合わせて進行し、その場で言葉を届け続ける必要があります。
デーブ川崎の記事は、映画やレコードなどの収録型の仕事を中心にしてきた竹脇にとって、毎日の生放送が肉体的・精神的に大きな負担となった可能性を指摘しています。別の人物紹介には、1959年春ごろに番組を降板し、療養した後に亡くなったという経緯も記されています。ただし、晩年の詳細については資料によって説明の範囲や表現に違いがあります。
竹脇昌作の死因について、人物事典類は1959年11月9日に自死したと記載しています。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』には、過労による病気で療養中だったという説明もあります。享年は49歳です。
一方、本人の死を生放送の負担だけに結びつけたり、NHK退職時の出来事と直接結びつけたりすることは、資料からは断定できません。過労や病気についての記述はありますが、個人の死に至る事情は複雑であり、単一の出来事だけで説明できるものではありません。
竹脇昌作の生涯は、職業上の成功と晩年の苦境が並存したものとして記録されています。その経歴を振り返る際には、ニュース映画やラジオに残した仕事の価値を評価すると同時に、死の事情を刺激的な逸話だけで語らない姿勢も欠かせません。
【プロの結論】徳光和夫らに受け継がれた声帯模写と伝説の理由
竹脇昌作は、放送業界での活動期間が長い人物ではありません。それでも「伝説のアナウンサー」として知られるようになったのは、ニュース映画とラジオという複数のメディアで、特徴のはっきりした語りを残したためです。活動年数の長さだけでは測れない影響力が、彼の評価には表れています。
放送史を紹介するデーブ川崎の記事によると、日本テレビのアナウンサーだった徳光和夫は、情報番組「ズームイン!!朝!」などで竹脇昌作の声帯模写を披露していました。竹脇の語りは、本人の活動を直接知らない世代にも、ものまねという形で伝わったのです。
声帯模写で再現されるのは、声の高さだけではありません。発音の強弱、言葉の切り方、抑揚、間の取り方など、聞き手がその人らしさとして認識する特徴も含まれます。竹脇の語りがものまねの対象として長く残ったことは、声質に加え、再現しやすいほど個性的な話し方を持っていたことを示しています。
また、竹脇昌作の仕事は、アナウンサーの役割が放送局内だけに限定されないことも示しています。ニュース映画では映像の解説者として、ラジオでは生放送の司会者として、それぞれ異なる媒体に適した語りを届けました。現在の映像ナレーションやニュース解説を考えるうえでも、情報を正確に伝える力と、聞き手の記憶に残る表現力の両立は重要なテーマです。
2026年現在、竹脇昌作本人は故人であり、現在の活動はありません。しかし、放送ライブラリーの保存番組記録や、ニュース映画・放送史に関する研究を通じて、その仕事をたどることができます。人物事典には、三男の俳優・竹脇無我が1992年に父のナレーションを収めたCDを編集・発売したことも記されています。声を記録として残すことが、本人の没後も評価を継承する手段になったのです。
竹脇昌作の評判と功績を評価する際の判断基準は、在籍期間の短さだけで人物を判断しないこと、そして美声という印象だけでなく、どのメディアで、どのような役割を担ったのかを確かめることです。彼の生涯は、放送史における個人の存在感が、職歴の長さだけでは決まらないことを物語っています。
【竹脇昌作アナウンサー】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:竹脇昌作はどこの出身ですか?
A1:出身地は資料によって異なります。コトバンク掲載の人物事典では東京出身とされていますが、新潟県出身や富山県射水郡(現在の射水市)生まれとする記述もあります。生年月日は1910年9月5日です。
Q2:竹脇昌作がNHKを退職した理由は何ですか?
A2:地方勤務を望まなかったという説と、学生時代の政治活動が影響したという説があります。人物事典と放送史に関する記事では説明が異なり、退職・解雇の表現にも違いがあります。正確な理由が確定した形で公表されているわけではありません。
Q3:竹脇昌作の死因と現在の活動は?
A3:1959年11月9日に49歳で亡くなりました。人物事典類では自死と記載され、療養中だったことにも触れられています。2026年現在、本人は故人ですが、放送ライブラリーの保存番組やニュース映画・放送史の研究を通じて、その仕事を知ることができます。
まとめ:竹脇昌作の生涯から見える放送史への功績
竹脇昌作は1910年に生まれ、青山学院大学英文科を卒業後、NHKのアナウンサー採用に合格しました。短期間でNHKを離れた後はニュース映画の解説者として活動し、パラマウント・ニュースをはじめとする作品で独自の語りを残しました。さらに、1957年からラジオ東京の「東京ダイヤル」に出演し、落ち着いた声と切れのよい話術で人気を集めました。
1959年11月9日に49歳で亡くなった後も、徳光和夫らの声帯模写や、保存された放送資料を通じて、その存在は語り継がれています。NHK退職理由や出身地など、資料によって説明が異なる部分はありますが、ニュース映画とラジオの両方で活躍した功績は、放送史における重要な足跡です。
竹脇昌作の生涯から学べるのは、アナウンサーの評価が、所属局や在籍年数だけで決まるわけではないということです。声の魅力、情報を届ける技術、そして時代ごとのメディアとの関係を総合して見ることで、彼が「伝説のアナウンサー」と呼ばれる理由が見えてきます。 (出典: 竹脇昌作 アナウンサー(Yahoo!ニュース))